第26回 ――符合ということについて あるいは傲慢さ?
前回 ポール・クローデルとその姉のカミーユについて触れた
翌週推薦した先生の集中講座のお供で助手を連れて 京都へ行った
烏丸御池で打ち合わせを兼ねて食事をして 近くの大垣書店を覗いた
ぼくはここの平台の積みの選択を意外と気に入っている
なんだか国立にあつた増田書店?といったか
古い話で自信はないが よく似た感じがしていて好きだ
学生街の書店でいて 何か押し付けがましくない 大人の感じがして
通路でパラパラページをめくっていると なんだか学生のような気がしてくる
“みすず”の新刊が並んでいた
みすず書房の本は高価で学生時代は 意を決して手に入れなければならず
かといって純粋に研究書という訳でもなく せりか書房と同じく羨望の的だった
そう考えると 小沢書店やエピステーメを含め知的ファッションの
ただ中にいた と思う
小沢書店のソフトカバーの双書は二千円を超えていたが
表紙が銅版画で使われるアルシュのような厚手の紙に
ダ・ビンチの素描をドライポイントで刷り上げたような装丁をめくると
目次がトレッシングペーペーに透けて見えて なんとも格好良かった
山川の世界史Bの教科書に副読本があって 教師用だったかもしれない
出来事と出来事やその解釈と解釈を関連づけたり
出来事の背景のエピソードを取り上げ 単独の記憶事項を結ぶ時
とりあえず固定する“のり”として とても役に立ったし
歴史が記述されるという 方法と形式を学んだ
そういった意味で 上記の出版社が出す本は ぼくにとって“のり”として
ある領域とある領域を読書しながら 楽しんだ
記憶の蓄積とはそのように抽象化していくものだと思う
固有名詞が“のり”に埋没して“のり”の記憶だけになってしまうのも
悲しい気がするが 想像と抽象についてはここでは触れない
で 大垣書店で クローデルを見つけた
―眼は聴く― ポール・クローデル 山崎庸一訳 みすず書房
9社共同復刊 書物復権という帯を巻いてなかなか興味深い
当然 買ってしまったのだが ここでは 見つけた という
その偶然性について ぼくなりに少し述べたいと思う
この事実に意味を重ねてひとつの連なった事象と受け取るか 否かは
心の健康の問題のような気がする
心に隙があると あるいは無知である事で 幾つかの偶然を符合させ
自己を世界の中心に置いてしまう
乖離していく自己は やがて世界に裏切られる予感に
いっそう中心を渇望していき 心象を物象化していく
ある種の求道者はこれを身体の限界の所でこれを行ない
見たいものを見る能力を身につけるというが
とは言え 世界はそのようなものに 意を介さない
世界に出てくれば 生物である以上熱力学の法則は絶対である
つまり お腹は空くし 出したものは元には戻らない
符合させる事は快楽である
世界を了解する事が出来る
偶然を感じる事や見いだす事はうれしい事だ
なぜなら ぼくはクローデルとカミーュについて思いを巡らせてから
80万秒後にクローデルとカミーユに出会ったからだ
その80万秒の中にクローデルとカミーユをいくらでも見いだす事は出来る
また 全く無関係だとも
ぼくは 母親の影響もあって勘の強い子供だったが
思春期に求道者の真似事をして 痛い目にあったので
二つ以上の符合はやり過ごすし すぐに宙づりにしてしまう
これは 世界に向けて われわれ普通の人にとって
精神分析学的にも 正しい姿勢だと思う
また 二人以上嫌いな人がいたり どうしても大嫌いな人がいる人は
気をつけた方が良い これも符合が符合を呼び 符合の結末を見る事になる
ぼくはこう思う
おっと クローデル?
世界もなかなかやるじゃん!
2007/9/15
小島祐二