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第27回 ――キーツの耳はうさぎ耳  その1―不思議という事

前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた
ぼくは記憶の方法として ある範列の基におこなわれていく自然な抽象化を
なすがままにしておくが それを止めてまである出来事に意味を問う事はない

出来事に意味を問うという事は 出来事自体に本質を見ようとする事であって
それは 出来事を見る視点 それを見ようとする意思 見たいものを見る事
自ら自身を見る事である
また出来事は連続した帯の瞬間であり その可能性と不可能性の要素は膨大で
その解析は神の領域となる
その意味において符合が立ち現れるのであって 何かの本質が現前するものではない
自己という近代的知性の方法である 遠近法的視点が立ち現れるだけの事であり
ぼくに言わせると それは偏見でしかない

倫理的に言って 出来事とはあくまでも他者として 扱わなければならない
ある出来事を超越的に扱い別の出来事と 意思というボイドで繋ぐ必要はない
自らを見るというなら 周りの友人達を見れば十分だ
それに 意思がいかに弱いものかという事は 日常的に経験している事だ

出来事から意味を問うて本質を見出そうという事は 悟りか夢見に似ていて
無限遠点に赴向く事を許される者はそうはいない
正当な宗教―カルトではない―では 改宗において―宗教は常に改宗を迫る
初歩的な逸話としてそれを誘うが 信仰が深まるにつれ禁止され 無意味だとされる
意味があるとするなら 存在にしか あり得ない
自分が今生きているという事は それはそれで不思議で すばらしい事だと思う
世界の了解とは そこから始めなければならない

世界が匣ではない事を認めるのに 随分と時間がかかったし
いまでも 数直線の0を認めるのと同じように うまくいかない時がある
それを何となくにせよ納得しようとしたのは 量子論に触れたせいだと思う
こう思うのも熱力学第2法則を認めるからだ
ぼくにとっては まさにここが時間の生まれる所だ
そして この時間とは決して一様でも 複雑でもないが
突き詰めて思えば 根源的な不思議さに向かい合う事になる

どのような不思議さかというと 
ぼくは自分自身を予めプログラムされた機械ではないと 証明できないし
という事は 世界もそういえるという事だ
まだ小さかった頃 病弱の母が家でぼくの帰りを待っている という事が
うまく呑込めずに 寝ていたはずの母に何をしていたか とよく聞いたものだ
学校で先生に怒られている時や道草をしている時に すぐ後ろにいなかったと
どうしていえようか よくそう思っていた

存在と不在の閾の不思議さは ぼくの思索(こう言えば何だか高尚な事のような響きだが)の
原風景であり  何処から来てどこへ行くのか というこの問いに
解を得られる事はないと思うが 厄介な隣人として扱う術を持ち合わせていない訳でもない
また 隣人として礼儀を尽くせば それなりの恩恵にも与る
しかし存在と非在の閾の不思議には 踏み越えがたい深々たる悲しみが横たわる


2007/9/29
小島祐二

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2007年09月29日 13:48に投稿されたエントリーのページです。

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