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2007年09月 アーカイブ

2007年09月15日

第26回 ――符合ということについて あるいは傲慢さ?

前回 ポール・クローデルとその姉のカミーユについて触れた
翌週推薦した先生の集中講座のお供で助手を連れて 京都へ行った
烏丸御池で打ち合わせを兼ねて食事をして 近くの大垣書店を覗いた
ぼくはここの平台の積みの選択を意外と気に入っている
なんだか国立にあつた増田書店?といったか 
古い話で自信はないが よく似た感じがしていて好きだ
学生街の書店でいて 何か押し付けがましくない 大人の感じがして
通路でパラパラページをめくっていると なんだか学生のような気がしてくる

“みすず”の新刊が並んでいた
みすず書房の本は高価で学生時代は 意を決して手に入れなければならず
かといって純粋に研究書という訳でもなく せりか書房と同じく羨望の的だった
そう考えると 小沢書店やエピステーメを含め知的ファッションの
ただ中にいた と思う
小沢書店のソフトカバーの双書は二千円を超えていたが 
表紙が銅版画で使われるアルシュのような厚手の紙に
ダ・ビンチの素描をドライポイントで刷り上げたような装丁をめくると
目次がトレッシングペーペーに透けて見えて なんとも格好良かった

山川の世界史Bの教科書に副読本があって 教師用だったかもしれない
出来事と出来事やその解釈と解釈を関連づけたり
出来事の背景のエピソードを取り上げ 単独の記憶事項を結ぶ時
とりあえず固定する“のり”として とても役に立ったし
歴史が記述されるという 方法と形式を学んだ
そういった意味で 上記の出版社が出す本は ぼくにとって“のり”として
ある領域とある領域を読書しながら 楽しんだ
記憶の蓄積とはそのように抽象化していくものだと思う
固有名詞が“のり”に埋没して“のり”の記憶だけになってしまうのも
悲しい気がするが  想像と抽象についてはここでは触れない

で 大垣書店で クローデルを見つけた
―眼は聴く― ポール・クローデル 山崎庸一訳 みすず書房
9社共同復刊 書物復権という帯を巻いてなかなか興味深い
当然 買ってしまったのだが ここでは 見つけた という
その偶然性について ぼくなりに少し述べたいと思う

この事実に意味を重ねてひとつの連なった事象と受け取るか 否かは
心の健康の問題のような気がする
心に隙があると あるいは無知である事で 幾つかの偶然を符合させ
自己を世界の中心に置いてしまう
乖離していく自己は やがて世界に裏切られる予感に
いっそう中心を渇望していき 心象を物象化していく
ある種の求道者はこれを身体の限界の所でこれを行ない
見たいものを見る能力を身につけるというが
とは言え 世界はそのようなものに 意を介さない
世界に出てくれば 生物である以上熱力学の法則は絶対である
つまり お腹は空くし 出したものは元には戻らない

符合させる事は快楽である
世界を了解する事が出来る
偶然を感じる事や見いだす事はうれしい事だ
なぜなら ぼくはクローデルとカミーュについて思いを巡らせてから
80万秒後にクローデルとカミーユに出会ったからだ
その80万秒の中にクローデルとカミーユをいくらでも見いだす事は出来る
また 全く無関係だとも
ぼくは 母親の影響もあって勘の強い子供だったが
思春期に求道者の真似事をして 痛い目にあったので 
二つ以上の符合はやり過ごすし すぐに宙づりにしてしまう
これは 世界に向けて われわれ普通の人にとって
精神分析学的にも 正しい姿勢だと思う
また 二人以上嫌いな人がいたり どうしても大嫌いな人がいる人は
気をつけた方が良い これも符合が符合を呼び 符合の結末を見る事になる

ぼくはこう思う
おっと クローデル?
世界もなかなかやるじゃん!


2007/9/15
小島祐二

2007年09月29日

第27回 ――キーツの耳はうさぎ耳  その1―不思議という事

前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた
ぼくは記憶の方法として ある範列の基におこなわれていく自然な抽象化を
なすがままにしておくが それを止めてまである出来事に意味を問う事はない

出来事に意味を問うという事は 出来事自体に本質を見ようとする事であって
それは 出来事を見る視点 それを見ようとする意思 見たいものを見る事
自ら自身を見る事である
また出来事は連続した帯の瞬間であり その可能性と不可能性の要素は膨大で
その解析は神の領域となる
その意味において符合が立ち現れるのであって 何かの本質が現前するものではない
自己という近代的知性の方法である 遠近法的視点が立ち現れるだけの事であり
ぼくに言わせると それは偏見でしかない

倫理的に言って 出来事とはあくまでも他者として 扱わなければならない
ある出来事を超越的に扱い別の出来事と 意思というボイドで繋ぐ必要はない
自らを見るというなら 周りの友人達を見れば十分だ
それに 意思がいかに弱いものかという事は 日常的に経験している事だ

出来事から意味を問うて本質を見出そうという事は 悟りか夢見に似ていて
無限遠点に赴向く事を許される者はそうはいない
正当な宗教―カルトではない―では 改宗において―宗教は常に改宗を迫る
初歩的な逸話としてそれを誘うが 信仰が深まるにつれ禁止され 無意味だとされる
意味があるとするなら 存在にしか あり得ない
自分が今生きているという事は それはそれで不思議で すばらしい事だと思う
世界の了解とは そこから始めなければならない

世界が匣ではない事を認めるのに 随分と時間がかかったし
いまでも 数直線の0を認めるのと同じように うまくいかない時がある
それを何となくにせよ納得しようとしたのは 量子論に触れたせいだと思う
こう思うのも熱力学第2法則を認めるからだ
ぼくにとっては まさにここが時間の生まれる所だ
そして この時間とは決して一様でも 複雑でもないが
突き詰めて思えば 根源的な不思議さに向かい合う事になる

どのような不思議さかというと 
ぼくは自分自身を予めプログラムされた機械ではないと 証明できないし
という事は 世界もそういえるという事だ
まだ小さかった頃 病弱の母が家でぼくの帰りを待っている という事が
うまく呑込めずに 寝ていたはずの母に何をしていたか とよく聞いたものだ
学校で先生に怒られている時や道草をしている時に すぐ後ろにいなかったと
どうしていえようか よくそう思っていた

存在と不在の閾の不思議さは ぼくの思索(こう言えば何だか高尚な事のような響きだが)の
原風景であり  何処から来てどこへ行くのか というこの問いに
解を得られる事はないと思うが 厄介な隣人として扱う術を持ち合わせていない訳でもない
また 隣人として礼儀を尽くせば それなりの恩恵にも与る
しかし存在と非在の閾の不思議には 踏み越えがたい深々たる悲しみが横たわる


2007/9/29
小島祐二

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