明日はお父さんのダイビングについて伊豆海公園に行くことになっています。
海は初めてです。お父さんは夏にぼくと山登りをすること、海で泳ぐことを目標にしていたのですが、夏の暑さに弱い事を知ると早々に諦めてしまいました。
夏休みにザクちゃんのお母さんの田舎へ連れていってもらった時、夕方すぐそばの西広瀬川でお父さんに無理やり泳がされました。 川の水は冷たくて気持ちよかったのですが、脚が着かない所でお父さんの支えが無くなると、 いくらお父さんが"泳いでる、泳いでるよ"ってお母さんに言って、 "すごい、すごい、ゲクランかっこいい"ってお母さんに褒められたって、川の流れに押されてとても怖かった。 今でも夢に見る。思い出すと少し緊張して眠れなかった。
そのあと、足助の灯篭を思い浮かべると暖かい気がしてきて、"海は広いって言ってたけど、どんなんかなぁ〜"と思っているうちに寝てしまいました。 海の中に顔を入れてパシャパシャやってると、すごっく綺麗な色だけれど、すごっく変な模様のお魚さんがいました。 "サルのマンドリルみたいだなぁ"って思ってよく観察しようと近づくと、 すごっい顔して睨むので"けっこうこの人、こわいんだぁ""お父さんに名前聞いてこよっと"と顔を上げると――今、動くんじゃない。 と声がして振り向くと、伝馬船に乗ったほとんど禿げ上がったおじさんがいました。
――なんで?。と言うと ――凶暴なんだ。追い払うからそうっと船にあがっておいで。と言って錘を降ろしました。
――あれは、なんていう名前ですか。
――ピカソフィッシュ。清家さんもあれにやられたことがある。
――聞いたことがあります。ぼくが生まれる前の年の事だそうです。なかなか傷が治らなかったそうです。ぼくはロンドンへ赴任していった清家さんを思い出しながら言いました。
――歯がすごいんだ。 ――忘れていました。可愛くってもクマノミやモンガラカワハギの類には気をつけるように教えてもらっていました。
――ふむ。おまえの父親は最近釣りをしてないな。潜水ばかりだな。とおじさんは言いました。
――お父さんは釣りもするんですか?。
――知らんのか。昔はシーズンには毎週のように行っていたぞ。毛鉤を巻くのが上手かった。
――ぼくは、おとうさんとはまだ1年半しか過ごしてないので、知らないことが多いんです。
――そうか、そうだったな。全てを知る必要などない。第一覚えきれまい。
――おじさんはどなたですか。とぼくは尋ねました。それに船が古風だと感想を述べました。
――小生はハイドロスフェアーキーパーだ。と言いました。
――ハイドロハウスキーパー?。
――ハイドロスフェアーキーパー。水圏の管理者だよ。それにこの船は小生の趣味だ。 それからおじさんは昔はこういう船でのんびりと釣りをしたものだと話し始めました。 途中で戦争が始まって釣りができにくくなったこと、思ったことが言えなくなったことを話してくれました。
――で、何か御用ですか。
――そうだ。父親に伝えて欲しいことがある。
――なんですか?。でもどうしてお父さんの夢の中に入っていかないんですか。ここはぼくの夢でしょ。と言うとおじさんは、
――それがきっと、入っていくとうるさいんじゃないかと。
――お父さんはお母さんより静かですよ。むッとしてぼくは言いました。
――いろいろ聞くんだよ。なんでサンショウウオが穴から出られなくなるまで気づかないはずがないし、 穴から出ないんだったら、えさが取れないからとっくに死んでいるとか、生きていても痩せていて頭がつっかえるはずがないとか、 鱸が胡瓜を食べるわけが絶対無いとか、もし間違ってあるとすればブラウントラウトだと言い張るんだ。 で、けなすんだよ。 最後にラ・フォンテーヌについてどう思うかとか、不条理と寓意について語らされるんだよ。 疲れちゃうし、小生は忙しいんだよ。
――で、なんて云えばいいんですか。
――海洋公園のウツボたちが言うには、透明度が悪くて退屈しているときや、安全停止のときに石を拾って、"爆撃するのはやめて欲しい"そうだ。
――はい、解かりました。伝えます。
――じゃたのむよ。これからあと10件もあるんだ。
――忙しいんですね。世界中を回るんですか。
――馬鹿をいいなさい。首都圏だけだよ。手漕ぎの船だからね。
――じゃあ、ハイドロスフェアキーパーさんはいっぱいいるんですね。
――世界中にいるよ。LAにはブローティガンがいるし、バハマにヘミングウェイがいる。
――ああ、おじさんってひょっとして小説家?。
――ああ、元ね。釣りが好きで釣りのことや魚について書いたことがあるから、こういうお役が回ってきたんだ。誇りに思っている。
――だったら、シューベルトもそうなの。
――そうだ、ライン川のな。
――ねぇ、質問があるんだけど。
――時間がないから、手短に願いたい。
――オコゼはなんで釣り上げられる必要があったの。 いいかげんなことを鱸に吹き込んだ罰、それとも海老を横取りした罰、そのどちらも。 その鱸の寓意に伝統的勧善懲悪の報復が用意されているのはなぜ? この寓意は太宰の『走れメロス』に影響を与えたと思っている?
――ねぇ、またあとで来るから。ほらっと、
――小生は忙しくて手がこんなになるまで、働いているんだよ。と掌を出しました。
魯を漕いでまめが一杯できた掌を二人でじっとみつめました。
――でも、右中指のペンだこは消えないんだ。というと、眼鏡を持ち上げておじさんは
――また来るから。ともう一度いいました。 |