« 十二夜物語 /2001 | メイン | 第4回 おそらく週間 No.2 ぼくの書斎 »

第3回  おそらく週間 No.1 祖父の記憶

当然な訳だけれども父と母がいて同じように両親にも父と母がいて、祖父は2人いる。
そうじゃない人はまだしばらくは、世の中には登場しないはずだ。
叔父やまたは伯母がいるとか、兄弟や姉妹がいるとかは当然のことではない。
当然のことではないからいろいろ、
その存在のあるなしに関して時に人には複雑な問題が、ありうるのだけれども。
当然の存在である親に関して言うと、問題があるとすれば、その関係性についてでしかない。
子のない親はいないし、親のいない子はまだ世の中にはいないわけだから。
遺伝的世代という付帯条項をつける必要があるだろうけれども。
と言うわけでかつて僕にも祖父が二人いた。
母方の祖父は地方行政に携る父親の第二子で、朝鮮半島で農園を経営していたが、
戦後故郷である佐賀へ引き上げた。僕の記憶では何も生産的なことはしてなかった。
体の弱かった母が長期療養しているとき兄と僕は、両親の実家へ預けられ、
就学前の僕は母の実家へ送られた。
田園地帯でのあまり田畑に収入の基盤を置かなかったのか、
農業で暮らしていくには狭い田圃だったようだ。
子供の頃、田植えを見学に行ったときも、夏休みに母と里帰りしたおりに、
田圃で農薬を散布したり雑草を取る近所の人たちに混じって、
祖父を見かけることはなかったし、
もう少し大きくなって従兄弟が祖母と稲刈りをすると言うので手伝に行ったときも、
その姿はなかった。
祖父が外で歩いているとか、動いていることで印象に残っていることはあまりない。
小さい頃何かと病院へ連れて行かれたのだけれども、
祖父の自転車の後ろに乗せられ毎日同じ時間に決まったあぜ道を無言で、
止まるぐらいゆっくりゆっくりと連れられた。
そこの病院に少し回復した母がいることもあったので、母に会えることは嬉しかったのだけれど、
祖父の自転車は死ぬほど退屈だった。
それから、従兄弟の初節句の御祝に祖父の家から戻る途中に、
その叔父の家があったせいか連れて行かれた。
兄がいたかどうかは思い出せないがいないにせよ、
もうその頃は独りで往復できたので連れて帰ってもらう必要がなかっ。
電車の中でおまえ達はこれからご馳走を叔父さんの家で食べていい思いをする、
と言われた。
それ以外は会話がなかった。
好き嫌いの激しい僕はよその家で食事をしなければならないのは、
それが御祝の振る舞いでも両親のいないところでは恐怖でしかなかった。
ましてや母の実家では拷問のようだった。
それからだいぶたって、減反の影響か鶏を飼育はじめた。
切り盛りしていたのは今度も祖母だったが。
数年たった夏休みに養鶏場をやめる事になった事を知った。
庭に丸太が何本も積まれ、
祖父が樵が使うような鋸をゆっくりゆっくりと引いていた。
母に聞くと鶏を燻製にするらしい。
全部の鶏? そう全部。それから祖父のところへ言って、
これ全部切るの?うなずきながら、桜だと言った。
僕は鋸を引くスピードと燻材の桜の木の多さに、
気が遠くなりながら鋸引く音を聞いて何か異質なものを感じていた。
それからずいぶん経ったクリスマスの頃に祖父から鶏の燻製が届いた。
丸々一匹テーブルに置かれた鶏はきれいな色をしてなんともいえない香りがした。
それを父が取り分け、お祖父ちゃんがせっかくやったものだから僕にも食べるようにと促された。
嫌いな鳥肉の匂いは燻製だからしないと、
一切れの胸肉を渡され、母と兄のじっと見守るなか口に入れた。
燻材の香が口の中で広がり、照れながら噛んで飲み込むのを皆が驚異の眼差しで見ていた。
と言うのも、僕が鶏肉は嫌いだと言い出してから口にするのはそれか初めてだったからだ。
もう少し食べてみる?と母がった。
僕は燻製にするとこうも美味しくなるのかと感動していたけれども、もういいと答えた。
兄が匂わなかっただろうと言うのにうんと答えると、じゃあ、なんで。と返した。
うつむいて黙っていると、恥ずかしいんじぁやない。
と母が助け舟を出していつもの夕飯が始まった。
夕飯には僕の好きなものしかなく、祖父の燻製を食べる必要はない。
それはお祖父ちゃんもやるね、とかそんな会話と共にどんどん減っていった。
僕には鋸の音が聞こえ、口の中には祖父の味がしてた。
それ以外ほんとになにもしてなかったように思う。
祖父の家の前には祖父の生家があり、本宅と呼ばれていた。
既に祖父の兄は亡くなっていて義姉が取り仕切っていたせいか、
祖父が本宅を訪ねるところを見たことがなかった。
母たち子供は修学と同時に国内へ戻され、本宅で伯父の監督下で従兄弟たちと育てられた。
伯父は厳格に母たちを預かり育て、
母たちの生活は学校か戦時中の勤労奉仕以外敷地内から出たことがなかったそうだ。
寡婦の大伯母は僕たちが遊びにいくと、いつもやさしかったし、
成長ともに会う間隔が長くなって歩くのもままならないようになっても、
僕の名前を呼んで懐かしがった。
もし祖父に祖父の生家の敷居が高かったのなら、問題は祖父に会ったように思う。
と言うのは、祖父は読物が好きだった。
たとえばお土産は分厚い月間雑誌でいいとか、
両親が読んでいた吉川英二全集とかを借りて長い間読んでいた。
繰り返し繰り返し何度もゆっくりゆっくり読んでいたのだろう。
次を催促しているのを聞きたことがないからだ。
僕はそれを夏風邪をひいて外に出してもらえないとき、
母に読んでもらっていたからどのくらいで読み終わるのものか、
想像がついた。今にして思うと父が読んでいた司馬遼太郎の方にしてもらえばよかったと思う。
5年生の夏休みに母が本宅に行って見せたいものがあると言うので、一緒に行った事がある。
そのとき母は大伯母を前にして僕たちに見せたことのない雰囲気で屋内を見回していた。
おそらく遠く離れていた祖母も知らないかもしれない。
それから2階の階段脇の奥の部屋に行ってみるように言った。
それは1階の一番東側の部屋で高い天井一杯の書棚があった。
ソーダガラスを通して庭の植木が歪んで見え、
庇が長いので奥はほの暗く電球が丸見えの白いセードのライトと薄い天板の質素な机があった。
3面を埋めた書棚には黄ばんだ全集類に混じって幾つかの初版本があった。
そこには祖父の本もあったはずだし、読んでない本やまた読みたい本もあったに違いない。
僕にとつてはそういった事にはまったく無関心であったように見えた。
本宅をあとにして、半年前に母が持ってきた文芸誌が縁側に置いてあるのを見ながら、
ほとんどしわになっていないのに改めて驚き、また不思議に思った。
そして、その書斎は新しい主人を迎えることなく、その家の解体と共にした。
  父方の祖父は禅寺の住職だった。
大きい、何て言えばいいのだろうテーブル、正座するのだから卓袱台?があり、
お参りの檀家や客をそこでお茶でもてなした。
横に火鉢があり、夏でも炭火が絶えることがなく、薬缶にはいつもお湯が滾っていた。
南側には障子があって廊下、ガラス戸から庭へ丸い敷石が続く。
その丸い敷石ずたいに兄の帰りを待ちながら、独り遊びをした。
廊下には何枚もの雨戸があって、
毎日朝夜走りながら開き閉めし卓袱台の北側に続き間で、
襖で仕切られてはいるがいつも開けられて通路になっていた、
西に背を向けて横に長く大きけれども3段になった白木のもう古くなった仏壇があった。
卓袱台の南端に祖父は座り、右に振り返れば机があり、
書院風の丸い明窓があって両端に何本もの筆が挿された竹筒が置かれていた。
凡そお経と紙や位牌以外が机の上に置かれることはなかった。
祖父が座る正面のやや左よりの端にテレビが置かれていたが、
母方と同じようにあまりついている事はなく、
違うことと言えば望めば戦争映画以外は何でも見ることができた。
祖父とテレビの距離は相当離れていた。
祖父はその間で、僕たち一家四人が当時住でいた家より広かったが、
寝ること以外一日のすべてを過ごした。
片手ですべてを成す事ができる机で書をしたため、
手紙を書き、ある時に戒名を記した。
そして机に背を向けたときは、すべてが机に向かう前の状態に戻された。
そこは僕の遊び場でもあった。
独り遊びをし、兄とふざけ合い、寝そべっておやつを食べテレビを見た。
祖父はそうか、そうかと僕たちを見ていた。

小島祐二

About

2001年09月25日 13:22に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「十二夜物語 /2001」です。

次の投稿は「第4回 おそらく週間 No.2 ぼくの書斎」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34