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第11回 ハロゲンランプに似合わないものは・・・・

キーツとゴロゴロするために家の書棚を整理した
両壁に1面にあったものをひとつにして 400冊余りを処分して清々した
まゆりに"丸山圭三郎先生も捨てるの"と聞かれて考え深いものがあったが
『ソシュール研究』さえ残しておけばいい
さすがに『吉本隆明著作集』は止められて諦めた
中学3年の夏の終わりに初めて『定本詩集1巻』を手に入れて
1年ぐらいかけて1冊ずつ買い足した
頸草書房の活字に最初のうちは慣れなくて苛められた
それから『埴谷雄高著作集』と一緒に百科辞典を追い出して 
特権的な位置をしばらく占めていたが『フロイト全集』と入れ替わり 
大学に入るとそれもまた他のものに入れ替わった
古く黄ばんでいるので表に出ていると部屋が暗くなるという理由から 
今回もまた未読の新刊の裏側の定位置につくことになった
これほどハロゲンランプに似合わないものはないと思う
その点『埴谷豊著作集』の装丁はうまくやっている
まゆりが初めて遊びに来たとき"黴が生えている本があるよ"と言ったくらい老成していた
ぼくとしてはそれが気に入っていて 未だに『全集』に買い換える気にならないでいる
全集の方はてかてかしているように感じて嫌いだったからだ
とは言うものの全集も既に絶版になっているかもしれなし 
どこかの古本屋でてかてかが取れていい感じに鎮座しているかもしれない
『死霊』は作品集だと4章までしかないので全集の方も持っている
小説『死霊』は未完で7日間の話がまだ半分も終わらないままになっている


400冊のうち150冊ぐらいは人に持って行ってもらった
残りを面倒だったのでブックオフに取りに来てもらった
60冊ほど買ってもらって200冊ちょっと残っている
買いがつかなかったものの一番上に『L"AMANT』があったのでなぜか聞くと
表紙が黄ばんでいるからだそうだ
その下に『孤独の発明』ポール・オースターこれは間違えて処分するほうに入れてしまったが
学生時代のものは残ってしまった
雑誌『エピステーメ』も全冊残ってしまったし『反デューリング論』や『ドイツイデオロギー』は
触りもしなかったのではないだろうか
かくして丸山圭三郎先生も残ってしまってなんだか2重に塩を送ったみたいで少し悲しい
『吉本隆明作品集定本詩集Ⅰ』の冒頭の『エリアンの手記と詩』には
――おまえの言葉は熊の毛のように傷つける
という句がある
3年生の初めにちゃんと勉強してみようと思って原典にあたってフーコーの『言葉と物』を読んでみることにした
ぜひ終わり近くの行を原文で読みたかったからだ
一字一句辞書を引くように読み始めたのでなかなか進まなかったが 
そうしているなかちょうどロラン・バルト晩年の著作『テクストの快楽』が刊行された
バルトは「作家は"我は神経症"とつぶやく」というコトバを言い残した
ぼくたちはそれまでの印象とは違い戸惑った
バルトの手つきは鮮やかでかっこよくてそれでいて便利だった
当時そういう人がまわりによくいて口閉していたせいか 
ぼくはエドガール・モランやガストン・バシュラールに惹かれた
いまでもバシュラールには不思議さとそれへの憧れに惹かれてしまう
このバルトの"書くゆえに我神経症"というコギトはフーコーが言うところの
"誰が語るのか""コトバが語る"というニーチェの解釈へ収斂していく"賭けてもいい 
人間は砂浜の砂に書いた顔のように消えてなくなる"というコトバに出会ったときのことを思い出させた
それから「エリアンの詩」を思い出した
――エリアンお前は此の世には生きられない 
――おまえの言葉は熊の毛のように傷つける
と吉本隆明は失恋を詩にして対幻想からを幾つかの宗教論を論じながら共同幻想へと向かい 
ぼくにとっては対幻想から共同幻想と対になるだろうと思われた心的現象論は序論のままになっている
ずっと後になってある意味そのわだかまりをジャック・デリダに見出したような気がする
ぼくはそれらを60Wの電球の下で読んだが やはりハロゲンランプではないなと思う


04/10/10

小島祐二


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2004年10月10日 13:28に投稿されたエントリーのページです。

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