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第12回 引き続き模様替えにて

あれから自宅の模様替えは本が減ったぐらいで一向に進んでいない
家の模様替えを思い立ったのは 8月末に夏休みで
ロンドンから一時帰国する友人を自宅に滞在してもらうため始めたものの まる4ヶ月経ってしまった
いやはやこれをなんと呼べばいいのやら
従って未だに2階のマットを1家4人での争奪戦が毎深夜繰り広げられることになる
この事の次第ははまゆりが“きょうこの頃の「魔法の絨毯」”でお話しているので
よろしければそちらの方もほのぼのとして面白いので読んでいただければと思う
ただマットに猛進し真ん中で大胆にも横になるキーツにはそれなりに正当性がある
そのマットは本来キーツの物なのだから 当事者間では真剣なのです
いずれにしても今月の終わりには兄が上京するので待った無しになってしまった


残った本は美也子のつてで練馬の図書館に引き取ってもらった
前回お話したエドガール・モランは老いても健在でつい最近ジャン・ボードリヤールとの共著で
『ハイパーテロルとグローバリゼーション』ジャン・ボードリヤール/〔著〕エドガール・モラン/〔著〕
宇京頼三/[訳]岩波書店、2004年9月発行というのがある
また『〈反日〉からの脱却』馬立誠/[著] 杉山祐之/[訳]中央公論新社、
2003年10月発行でもところどころ引用されている
ぼくが好きなのは『失われた範列/人間の自然性について』『人間と死』いずれも古田幸男訳、
法政大学出版局叢書・ウニベルシタス83年刊行なので数回再版されているが 
『オルアレンのうわさ』は訳されてないのだろうか  
オルアレンで起こったあるうわさが広がって終息していくまでの80日間のフィードワークで面白いのだけれども
最近ジャン・ボードリヤールにしても また80年代に聞いた名前がよく出てくるような気がする
これはぼくの回顧的情緒だけではないような気がするのだけれど
バルトの編集物の新刊が出てルイ・アルチュセールの監獄病院からの告白も届いたし
マドンナ的存在のスーザン・ソンタグも『良心の領域』で再登場している
80年代の終わりに盛んに世紀末と相関して脱構築/ポストモダン/ニューアカデニズムと
お題目や旗印ばかりで90年代は経済がそうであったように閉塞してしまって 
いつの間にか心理学や社会学的世界になっていった
それでもぼくにとってはスラヴォイ・ジジェクの著作や大澤真幸の『恋愛の不可能性について』などは
刺激的で大きな収穫だった
恐らくはこう言ってよければ心理学も社会学も世界を俯瞰できるわけではないし
(そもそも彼らにしてもそのようにいっていたわけではない)
一般化されて対処の方便に持ち上げられただけでぼくは一見賢そうで悲しくも貧しくて愚かな時代だと思う
前回は吉本隆明の『エリアンの手記』から“心”についての問題を少し取り上げようと思って
ジャック・デリダの(郵便的不安)の解釈のされ方について思いをめぐらしていると訃報が届いた
ぼくにとっては記述されたものとしてテクスト=形而上学を批判したデリダが 
何故また恐らくは晩年だろうと思われる時代に A=Aの不確定性の問題を持ち出したのか不思議だった
よく言われるヘブライイズムへの回帰に賛同するわけではないが 
すでにフーコーが『狂気の歴史―古典時代における』の懺悔聴聞制度で言及していたことであったし 
これは超越性や絶対性へ向かうことにはならないか 
いずれにしてもまたしても“理性“の定義へと戻らざるを得ないのではないかと思う
これはデカルトをめぐってデリラとフーコーは大論争して袂を分かつことになるのだが
前出のスラヴォイ・ジジェクや大澤真幸の仕事はこの問題を包括的に含んでいる
人はいつ心を発見したのだろうか
物体である脳はいつから物や形のないものをその中に作り出したのだろうか
いつだったかまゆりが脳と心の話に割り込んできて―心の場所なんて此処に決まってんじゃないの 
ここよ ここ―とその薄い胸を叩いた それもそうかもしれない 
人は身体性において脳と心を同じに扱いたがらない
どのような追悼文が各雑誌書かれているだろうか
これもまたエドガール・モランと同じく練馬の図書館に行ってしまったが 
エピステーメにデリダの『弔鐘(グラ)』の訳が掲載されたことがある
確かではないが(今となっては確かめる術がない)訳したのは豊崎光一だったかあるいは
それについてのエピステーメおなじみのメンバーの座談会であったかもしれない
あの当時一番輝いて見えていた人だった
もし読めるならこれだけ読めればいいと思う
ぼくは豊崎さんのおかげでクロソフスキーを知って国文から仏文へ転科した
卒論でもお世話になった
亡くなってずっと後に日経の日曜日に掲載されている随筆欄を辻邦生が出筆していて
フランスでのシンポジュウムのあとブルターニュへ旅行したときのことを偲んでいた
日頃の年長の思いやりと期待していた者への惜別感が静かに伝わってくる
ぼくは心を―死ぬるときが死ぬとき―という良寛のコトバに置いている


04/11/15 

小島祐二


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2004年11月15日 13:29に投稿されたエントリーのページです。

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