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第15回 引き続き"セカチュー"と自己中にて――"セカチュー"

主人公と同世代の人達が ひたすら語り手の視点からのみ語られていくこのドラマを
"セカチュー"と名付けた事に興味深く思う
また まったく正しいとさえ感じている
中心性のあるいは境界線への憧れと侮蔑を感じる
彼らは中心/境界線が思念的な幻想であることを知っており またそれについて語ることは
陳腐なドラマツルギーに陥らざるを得ないことについても 恐らくは気づいている
憧れと侮蔑が生むものは憤りであり これはいつの時代も正当性を持つものだ
2004年12月末

補足
以下は上の文について"セカチュー"の名付け親の世代の只中にいる
南里家の長女みなみちゃんからもらったコメントへの返事の主要な部分である
非常に読みやすく解りやすくなっているかと思う


恋愛は人それぞれでまったく個人的な訳だけれど その語られ方や総括の仕方には
ある幾つかのパターンがあるように思える
世代的に行動心理学的に生物学的に等々 また普遍性を持つものとして
そしてその普遍性は複数性のもとに反復し循環する
恋人が死んでしまう物語は数多く語られてきたが 多くは男性が語る物語だ
男性が死んでしまうものは神話的である
古くはオシリスから『トリスタンとイズー物語』至り――神話的に変奏されてきた
これらは『ロミオとジュリエット』も含めていいと思うが 本来マッチな物語だったが
映画『タイタニック』のように女々しくなってしまった
女性が死んでしまうものには 語り手の同伴者が死んでしまうのだから
寂しさがつきまとう
この愛惜はやがて昇華され 全てを許す慈しみと優しさのうちに立ち尽くすばかりだ


また 女性が語るものは『源氏物語』や『オルフェウスの窓』のように
要素が多すぎて純愛の範囲を超えてしまう


確かに『愛と死を見つめて』のようなもの反復でしかないだろう
また二人の女性の描き方にも一言とあっていいと思うが 趣旨ではない
『愛と死を見つめて』には時代の雰囲気として 堀辰雄の『風立ちぬ』があり 
そこにはアンドレ・ジイドの『狭き門』があり それを考察しようとする
ポール・ヴァレリーの知的透明性があつた
『世界の中心で愛を叫ぶ』は先の昇華は 既に語り始める以前から完了していると思われ
福永武彦が堀辰雄から受け取った"孤独"というような普遍的循環は見られない
また 少なくとも『愛と死を見つめて』や『知恵子抄』はリアルなものであった
ぼくはこれを竹細工で作られた鳥篭の中のつがいの小鳥たちを見ているように感じ取った
"助けてください"という連呼に唯一心を揺さぶられが ぼくはこれを醜悪だと思う
また"孤独"も醜悪だと思う


これらを了解済みとして
"セカチュー"="自己中"と呼ぶのだと言う気がしてならないは ぼくだけだろうか
語り手はそれをも了解済みとして語り それを受け取る完全な共犯関係がある
彼らは『世界の中心で愛を叫ぶ』を"セカチュー"として暴露している
憧れと侮蔑からの憤り
世界は自己と他者あるいは既知と未知等々二重性を帯びて乖離している
それでも明日という未知に 生きていかなければならないのなら 
為さざるは勇無きなり 為して成らざるは智無く信無きなり (幸田露伴)
風立ちぬ いざ生きめやも (堀辰雄)
と循環するべきだ


2005年1月24日


小島祐二


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