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第17回 ださいお侍が来るよ さようか ――或はリハビリ?

話は随分と遡ってしまうけれど

アマゾンだと年明けの配達になってしまうので 昨年末恒例になっている『ローマ人の物語』を蔦屋に買いに行って 

ちょっと迷ったのだけれども ついでに奥泉光の『バナールな現象』を買ってしまった

新年から笑えた

今年は新年早々から 幸先の良いスタートを切れたように見えたのだけれども

今のところ 購入した本の方が多くなってしまった

という訳で日曜版を見ながらアマゾンをクリックしたりすると

“こんにちは 小島祐二さん おすすめの商品があります”とくるとちょっと嫌な感じになるし 

“あなたの本が〇〇〇〇〇で売れます”と追い打ちをかけられると“紀伊国屋で買うぞ!”と言いたくなってしまう

そして世の中を(世界)見回しながら 例えばこのような法則(ドグマ)を導きだす

人は何時でもいい加減で本末転倒な責任転嫁をしてしまう


で なんでこのような場合普通“人は…….”と言い “自分は……..”と始めないのだろうか

“自分は……..”と始める場合の方が深刻な問題を抱えている場合が多いわけだけれども

少なくともそういう人たちは自己を人へと相対化していないので その場所にいる限りは解決の端緒を掴んではいる

あとは踏み出す勇気と自己への配慮と気遣い つまりは努力 或は始めに決めた事に対する忠実さ?

人はと言うときの無神経さは二重の責任回避であって 常に責任転嫁は二重の責任回避という二重構造になっている

また責任転嫁は責任の有無が曖昧な形としてでしか 形にならない地平に生じてしまう

少なくとも無神経な世界にいる彼には そのような形にしか その場所にいる限りそう見えてしまう


当時グノーシス主義の影響か ぼくはグレゴリー・ベイトソンの『天使のおそれ』はそう読んだ

今でもさらに そう思う

グノーシスの天使たちは そのような場所にこそ“恐れて近づかない”

そのような世界と自己との関係は世界を見回しても 自己へと回帰しない幻想としての鏡像関係(評価し過ぎ?)であり

子供の世界のような入れ子になって閉じた“ふつう”とか“みんなが”という凡そ成立しているはずのない世界である


ぼくはアマゾンから届いた本を順序よく 或は好みに合わせて読み進めばいいのだし 読めないものは注文しなければいい

読まない理由を読めない理由として 滔々と考えだす必要などない


奥泉光の『バナールな現象』はとにかく笑った

“ださいお侍がくるよ さようか”まさにバナール!

バナールなものに意味を見出す事には 意味があるのなら意味があるのだろうけれども ふつうとか みんながとか

ましてや正義や正当性を持ち出さないでほしい

時として子供や仕事が疎ましいことはバナールな事象な訳だし そこに意味を見いだすのは何か理由があるからだ


ベイトソンの問いに

“子供にほうれん草を食べさせるたびに 褒美としてアイスクリームを食べさせる母親がいる”

このとき

  1 ほうれん草が好きになるか嫌いになるか

  2 アイスクリームが好きになるか

  3 母親を好きになるか嫌いになるか

これらの予測が成り立つためには 他にどのような情報が必要か

この問いに答えるにはむやみに情報を集めても意味があるわけではない 

まずは1か2か或は3かの仮説に立って情報を集め整理検証していくのだから 仮説を立てる事や立て方が重要で

必要なのは仮説だという事だ

と言う事は問題の設定能力であり 問題意識そのものという事だ

まさに心理学用語の“ダブルバインド”という概念をイノベートしたベイトソンらしい 問いかけだと思う

ベイトソンは仮説を立てて “謙虚”に情報(事実)を集めればよいと言っている

そして “謙虚さ”とは心の問題だとも


2006年7月21日

小島祐二


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