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第18回 沿線駅ビルの本屋で蓮見重彦と柄谷行人を同時に買う――リハビリ進まず

最近よく外出する

で つい本屋によることになる

目当ては堀出し物のサスペンスもの 

ぼくはまだ 15 年ぐらいの若輩ものなので 探すといろいろある

乗り降りする駅ビルの本屋には出かけるたびに入るので 

文庫の棚が新しくなっていなければ やることがなくなるので

次いでだからと 新書のコーナーに向かう 前の大半を占める雑誌コーナーには 

もう既についていけなくなっているので 近づけない

で 佐藤賢一や加藤廣の横に中澤新一や若菜みどりがいたりして 

また ロレンス・ダレルやジュリアン・グラックがソフトカバーで

再販されていて出版業界の一端を感じたりする  

まぁ ダレルの―アレキサンドリア四重奏―は始めの―ジュスチーヌ―しか無かったりする訳だけれども

そんなふうにして 蓮見重彦と柄谷行人を買った

どうだろう 学生時代同時に買ったことがあるだろうか と思いつつ何だか懐かしかったりした

蓮見先生は日経のスポーツ欄を担当されていて なかなか楽しい


それと 出版されるたびに積み重ねられている池田晶子の本がある

この人は随分昔に仕事を終えて帰ってテレビをつけたら―朝迄生テレビ―をやっていて 

藤原正彦や西尾幹二に

――幸せってなんですかぁ?――とだるそうに質問していたのが 印象に残っている

それから また見ることを期待していたが 出演がつまらなかったのか 

同じ番組には出なかったようなので チェック から外れていたが

いよいよ埴谷雄高がなくなるのではないかという時に 

対談が出て なんで?というか嫉妬?してしまった

それから ソフィーやらと相まって  ベストセラー 作家になって遠く 離れた 存在になってしまっていたが 

いつかは まとまった論考が出るものと期待していたが 感慨深くページをめくった


最近はと言うと 良く仕事をしている

仕事 と いうとぼくの仕事は ジュエラーなのでデザインをしている 今年は例年になく多い

ずっと店舗スタッフに要請されていたシルバー地金リング 第二弾である

龍のリング 群雲のリング 独鈷のリング

龍は子供の頃から 長崎の“おくんち”で金の玉を――くれよ くれよ――と練り回るのがいじらしく可愛い 

一度やらせてもらいたい 

それから 泣いているような 笑っているような 北斎の龍  キーツに良く似ていると思う

元々は水の精で荒川を表象していて 農耕の神でもある  

農耕国家として文明を築いて来た中国王権を現している

日本も含め朝貢国家は中国王朝に敬意を表して 龍の爪は3本爪である 

随の煬帝のように治水は国家繁栄の礎であった

治水されて可愛くなった龍が好きだ  

二人で“白”が苦しんでいるシーンではキーツが苦しんでいるようで涙が出てしまった

龍が雨上がりの虹で紫に染まって群れて湧き上がる雲の上で 

くねくねと玉を追いかけ 独鈷の輪がチリンチリンと鳴り

そんな空の下で犬達と草の上で昼寝でもして微睡みたい  

多少地面が湿っていたって構わない


最近は一段と忙しくなってしまって本が睡眠導入剤のようになってしまって久しい 

とは言っても 塩野七生の“ローマ人の物語”には敬意を表したいし 

“風の影” ? カルロス・ルイス サフォン―のプロットはともかく文中引用には 逐一しびれるものがあったし 

なんと言っても ―ダン・シモンズ―“イリアム オリンポス上・下”3部作である 

今回は“イリアム”から“オリンポス上・下”まで翻訳が早かったので 

“ハイペリオン”4部作ほど混乱せずにすんだ 5年ぐらいかけて刊行されたと言うわけで 

ベットの下にはキーツとイプーの毛を被った SF  サプペンス ハードボイルド

―といってもチャンドラーしか読まないが―

貯まってしまっている

と言いつつ養老先生の―もうおしまい!の―“超バカの壁”や“99%は仮説”で人を煙に巻いたりして 

なんともいい加減な読書生活ではある


が しかし 上の2著作を既知の事で余計なお世話であると お考えの人は 

ロジャー=ベーコンのイドラやウイリアム=ウォカムの剃刀を踏まえて“普遍論争”について思いを巡らし 

ディヴィット=ヒュームの不可知論を訪ねてはどうか

恐らく浜辺で座礁しかけている多くの知と言えば言えるようなものの隣に自らの“砂 ” を見出すのではないか  

まぁ 余計なお世話ではある

そのようにカントは微睡みの中でヒュームのうなり声を聞いたはずだ

埴谷雄高が“想う=思索”と言う時はこのような所作を指しているのだと思う

ぼくはうめきに口を押さえたヘーゲルの布に 唾液に混じった血の匂いを 吉本隆明のようには嗅がない

ただ例えば 雨上がりの美しい夕日を見れなくなる日が来るのが悲しい

また この美しさを感じる心と その美しさ自体がなくなってしまうのかと思うと 

時としてうめき声を上げたくなってしまう


――人は病気で死ぬのではないのです 生まれて来たから死ぬのです――池田晶子

いつか読もうと思っていた

美しいうめきだと思う


2007.05.16

小島祐二

 

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2007年05月16日 13:37に投稿されたエントリーのページです。

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