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第25回 ――引き続き 老いについて

杖を振り回しながら 声高に若い信奉者を引き連れて安宿に向かうベルレーヌと
口ひげの両端を鳴戸巻きのようにして 殆ど―さかしま―の住人であった
バルベー・ドルーヴィイとのサンミッセル大通りでの 毎日繰り返されるすれ違いを
リュクサンブールのアパートの窓から見ていたというアンリ・ポワンカレの投げかける視線に
老いの共感を感じてしまうは 穿った思い込みだろうか
数学者の晩年は長い
一線から身を引いた所で とうに代表作を出してまってなおもまた存在を示そうとする
同世代の人に向けられる眼差しの愛着は透き通ったものだと思う
バルベー・ドルーヴィイはフランス人でも知らない人も多く 国書刊行会でしか出版されておらず
殆ど馴染み薄い作家である
ドルーヴィイの二人の弟子 ジョリ・カルル・ユイスマンスとポール・クローデルの
それぞれの世界との折り合いのつけ方を思うと複雑な思いがする

クローデルは早くに宗教と和解して 官僚として一応順調に大使まで勤め駐日大使として
文楽など日本の文化を理解するとともに 明治憲法下において軍事国家へ向かう危険性を
正確に予測している
ドルーヴィイとマラルメにも等しく距離をとれたのは 姉のカミーユの激しさとその破滅を
傍らで見ていて 魂の奔流に本質的に懐疑を抱いていたのではないだろうか

ユイスマンスはまさに格闘した人である ようやく―彼方―において和解し得た
ちょっとお腹が空いて アパートからサンジェルマン大通りを少し斜めに川岸に入った
深夜のオデオンのカフェの前でパリ大の学生たちに混じって パニーニが焼けるのを
待ちながら偶然ユイスマンスの家を見つけた  うれしかった
ポワンカレは世紀末の大数学者でホモロジーの概念は ぼくのデザインという行為
考全般において 基本的原理的なものだ

ベルレーヌの詩に波がひたひたと打ち寄せては劇場を満たすというようなフレーズが
あったような気がするが 老いとはそのようなものだろうか
もちろんベルレーヌは酩酊している


2007/8/28
小島祐二


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2007年08月28日 13:46に投稿されたエントリーのページです。

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