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第20回 愈々盛って しか リハビリか?― ― 西瓜“党”の日々

西瓜の季節であるが 余り甘くない 糖度が12度程度で渋々である
一番生りが当然一番甘いが
産地を北上していっても8月に入ってしまうと美味しくなくなってしまうので
梅雨の中休みのかんかん照りを期待したい
その渋々の真ん中だけを食べて 後を子供たちにも分けてやる
と言うか 食べてもらう
ゲクランで発見したのだが 犬は西瓜が大好きである  
と言うか家の個体たちは全てがである
シャカシャカとよく食べて 
“美味しいぃ~”とうっとりした視線を送って来た 
で  現在である 
いやはや何と言うか  とんまな戦いのような惨状が繰り広げられる


大体4つ割にしたのを買ってくるので  それを横に2つに切ってそれぞれが食べる訳だが
縦に公平に切り分けるのは大変難しい  正確に切らないと注意と指導が入る 
好きなものついてはことさら 切った人が少ない方を取るようにと 
子供の頃 親に習ったが
出来るだけ公平に見せて多い方を取るか  小さい方を選ばせるのだ 

イプゥーが最初に まだですか もう良いのではないですか 
もう 赤いところ赤いところ  とやって来る
で しょうがないのであげると  涎を どぅーっと ほんとにどぅーっとである
落としながらシャカシャカとやる
そのうちに  まるでお迎えが来たように寝ていたキーツがむっくり起き出して
ぼくもぼくもと言って来る
嗅覚は依然として健在らしい
キーツは怖いのである 

何度言って聞かせても バクッパクッと二段噛みして指まで食われてしまうので 
これには まゆりは不参加である
そこで スプーンを持ち出して上に乗せて 少し固定してあげることにしている
キーツも心置きなく食いつける訳だが
最初のがぶりで勢い余ってスプーンの上から毎回のように飛ばしてしまう
飛んで行った西瓜をヴィヨンが下で待っていて 少し斜め気味にシャカシャカと始める
かくして 床には西瓜糖が撒き散らかされるのである 

先日のは急に夕方から寒くなったし 特に甘くなかったので 
子供たちへ大サービスとなり二皿分切ってあげた
最初は喜んでいた子供たちも次第に飽きて来たらしく
ペースが緩くなったと思ったら
急にぽとりと床に落として さっさと2階へ上がってしまった
全く現金なものだ サービスが過ぎて だいぶ青臭かったかもしれない
こうして 我が家の西瓜糖の日々も中休みである 

前回の題は荘子から拝借した 
荘子では “胡蝶の夢”の方が広く知られているようだけれど 
ぼくは恵子と橋の上から交わした
“魚の楽しみ”についての対話を知った時の事を思い返すのが好きだ
折々につけ立ち返るコトバの一つで 胡蝶の夢もそうだけれど 
韓非子の“切り株”や明るいとは とても言えないけれど
論語を含めて漢籍のある種の空間をなしている
その周縁を薄く取り巻いてきたような気がする 

そして 今となってはとても稚拙で恥ずかしいが 
高一の倫社でソフィスト達と一緒に夏の汗と伴に流してしまった
まぁ~ホルモンのなせる技ではあるが 
それからホルモンの真っ直中へ進んで それはもう恥ずかしいの上をいく
“筆舌に尽くし難し”<そのコトバを知らない 
ジェノバの禿げ山の激しい嵐の一夜?
磔刑にして塩を撒きたい とか意味もなく思う 

今となっては あの頃の自分が信じられないし理解不可能で 
到底今の自分との繋がりを拒絶したいのだけれどそれでも
その後ろめたさにめげそうになりながらも それをインテンションにしてはいるが
中学や高校の同窓会には絶対に“行きたくない”
思わず 力が入ってしまった 遠くにいて良かったと思う 

それからロラン・バルトにその浄化したものを見せられ 
それは鮮やかできらきら煌めいてめくるめいていて
目が廻って掴み損ねたけれど  目に入ってきた残像は今でも 
ぼくの脳の中で虹のように輝いている
まるで 狐の嫁入りのような雨に打たれた印象を持っている 
それからミシェル・フーコーでありジャック・デリダとのデカルトを巡る理性論争であり 
カントの微睡みとヒュームの唸りである
そのようにしてその空間は広がり続け 
その時折々の印象と解釈のうちに 他の空間を併せたり 

例えばガリバー旅行記はぼくの中では ヘンリー・D・ソローやレイチェル・カーソンへと続き
リチャード・ブローティガンでは アイリーンという名が 
レイチェルと同じようにその響きから永遠の名前となり
明るく眩しい日差しの下にも 心に沁み入る透明なリリックの悲しみ味わったその時
ポール・ヴァレリーの“海辺の墓地”のについて“ルミエール”というサブタイトルを付けたレポートを書いていた
キーツは“アメリカの鱒釣り”の土地から来て アイリーンの香りがする
それから この空間には後年 ヘルマン・ヘッセがメイ・サートンと伴に回帰してくることになる
ガリバーは“フウイヌム”の最終章まで読むべきだ
ちなみにバックミンスター・フラーはソローの一族である  
かなり問題児視されていた 

一時的には途切れたようでも また更に薄く伸びて世界を輪郭づけていく
私という世界もそのようなものだと思う
私という自己とは決して私の中心にはいないものだ
私という意識は薄く延びるだけ延びて私という縁であるほうがいい 

鶴ヶ谷真一―書讀羊亡

イチェル・カーソン―海辺 センス・オヴ・ワンダー

ヘンリー・ディヴィット・ソロー ―森の生活 ― ウォールデン

ヘルマン・ヘッセ―庭仕事の愉しみ

メイ・サートン―ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く独り居の日記

リチャード・ブローティガン―西瓜糖の日々

ポール・ヴァレリー―魅惑 テスト氏

ウィリアム・アッカーマン―Passage/Anne's Song

ジャニス・イアン―Between The Lines/At Seventeen
 


2007.6.20

小島祐二

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2007年06月20日 13:42に投稿されたエントリーのページです。

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