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第22回 フーガ的呟き―続き

前回はサブカルチャーについて 思わず長くなってしまった

レアな庶民的で名のない人々のカルチャーの
リレーションという事の重要性の真意ついての
補足を少ししておく必要がなくはないのではないかと思う

いわゆるサブカルチャーがあるいは それを担うと自負する人達が
自らが招き入れるマネタリズムによって サブカルチャー自体を
疲弊させているのではないかと 指摘しておいた
また 彼ら自身がカルチャーの前衛と錯覚するための補償として
社会学と精神分析を歪な形で取り込み 躁鬱化している
これは各領域で世代を超えてみられる増加現象であり 低年齢化している
そもそも ロラン・バルトや由良君美が映画や劇画を 
また埋もれた作品などを取り上げたのは 大文字のカルチャーに対する
カウンターであり サブカルチャーという枠組みに
賛成もしていなければ擁護もしていない 形式の問題性を提示したのである


現象としてひとつの分野が勢いをなくすとか 
他に内包され統合されるとか その逆も また一時的に消えるとか
それは あり得る事だ
消え去るものや消え去ったものについては
制度的枠組みを超えた パラダイムの転換に関わる事なので
ここでは触れる力量がない
ぼくは良きリレーションに身をおいていたと書いたが 真にリレーションは
マスではおこなえない
マスでおこなわれ得る事と言えば 雰囲気や噂を形成させるぐらいで
知的な深度としては浅く 確信としては脆いものである
これは明治以来文化制度として根付いており
我が国では思想家や哲学者ではなく 批評家がその役割を果たしてきた
そして彼らは 膨大な枚数を重ねながら 一度も体系化させた事がない
よく脱構築について 戯れとかノマドあるいは逃走と言われたが 
それは 形式や構造からの行為や所作であって 形式や構造の理解には
ある程度の付帯した知識と気づきがないと 形式なり構造は見えてこない
例えば それは教師と学生の距離が一層身近くなるゼミの後の研究室での
談話においてであり かつて重要だったのは父親や伯・叔父との間に為された
子弟関係における一子相伝に理想をみるのかもしれないが
そこでは形式が受け渡されるのであって いわゆるハウツーとは対極にある
説明なしに提示されるだけである
あくまでも収蔵された知とは固有のものでありながら
その形式を支える方法論的系譜として体系化されていく


ぼくは軽井沢に連れて行かれたが フォンタナやその絵については
何も語られず 別荘地の側溝に自生していたクレソンを見つけて
一杯摘んで 冷たいポタージュスープを作って食べた


2007.07.28
小島祐二

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2007年07月28日 13:44に投稿されたエントリーのページです。

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