2007年11月21日

第28回 ――キーツの耳はウサギ?の耳 ―ようこそ不思議さの中へ

物質が意識を持つという事をどう記述すればいいか その方法をぼくたちは知らないが

意識という事すらよく解らないのだから

解っている事言えば 

始まりも知り得なければ また終わりも知り得ないだろう という事だけだと思う

リアルなこの感覚の意識からいうと なんと不思議な事だろうか

そういった意味では 脊椎動物には非常に連帯感を感じるし

同じ哺乳類にはさほど違いを見いだせない

犬たちと暮らして思う事は 

感覚の蓄積の記憶から引き出す意味という作用の構築の多さと

複雑さに関しての傲慢な思いだけのような気がする

意味とは作用であり 作用は構築されて成立するものであり 

それは事化されることで 物象化される

事化ということは言語化と同義であり 物象化とは語られることである

そして語ろうとする意思は 想像と抽象において誤謬の対象となる

物が意識を持ち意思を構築して物を作り出すことの なんと不思議なことか

この不思議さは フーコーの言葉を借りれば 

“賭けてもいい 砂に描いた顔のように消え去る”

ぼくたちは犬たちと暮らし始めてから6年余りになる

決して長くはない

その間に4頭の子たちと暮らし  2 頭の子たちが旅立っていった

未経験で超大型の生まれたてのボルゾイと暮らし 

ぼくたちの年を遥かに超えた老犬と暮らし

そして今 青年期から犬の黄金期にさしかかる子をレスキュー団体から引き取った

考えてみれば無謀な選択で 全てがはじめてのきらきらとした世界と

一転して 安らぎ中で静かに老いていく姿を見るという 

そして 今真ん中を埋め合わせているという 変な暮らし方ではある

というのも最初の子が約束を破って さっさと神様の所へ帰って行ったからだ

今でも よく一人で逝けたものだと思うし よくぼくたちの所へ来たものだと思う

ぼくたちの方が 彼と神様との約束を判らなかっただけなのかもしれない

最初の子には母犬のティグラの gula をとって guesclin ゲクランと名付けた

母親に似て優しい美しい犬に育った 

ローマンノーズの鼻梁からアーモンドの目尻 細く隆起する眼孔と額 後頭の尖り

それから口元から耳 その付け根から首筋を 

とくに風上に面をかざして空気の匂いをとる姿を 

また 深い胸から後へと切れ上がる内股 背から大腿にかかるアーチ 

細い脚の躍動を ぼくたちは愛した

ゲクランがそういうエアーセントをする時は ぼくたちはそーぅと忍び足になった

繁殖を引退したティグラとそのペアの父犬を引き取るのが はじめからの夢だった

ゲクランとは思いもよらず2年しか暮らせなかった

新しい子犬を と言うブリーダーを説得して 父犬をキーツと名を変えて迎えた

残念な事にティグラは既にこの世にはいなかった

キーツは9歳を越えて 海の日にやってきた

涼しくなる秋まで待とうかとも思ったが 

初めて会った時はジャンプして迎え 帰るな行くな とすり寄ってきた若々しさが 

犬舍の内という運命を淡々と受け入れている姿の変わりように耐えられなかった

その年の7月 犬舍の坂を下って千曲川に散歩に出かけた

思った以上に脚が弱っている事に気づいて 歩みを止め木陰を見つけ涼をとって

ぼくたちは キーツの眼差しに未来をみた

蜩の鳴き始める静かな昼下がりだった 

それからキーツは4年間ぼくに眼差しを送り続けた

昨年から急に老いが目につくようになるつれ ぼくの方は忙しくなった

出かけるぼくを目で送り 帰ってくると 

真っ先にじたばたと 撫でてもらいに顔を寄せてきた

気がつくと 遊んでいるときのように耳を立てるようになっていた

微熱が続き目脂が多くなって 取りきれなくなった時 そのあくる日を告げた

それが キーツとの約束だった 

そして 最後までその足音を聞いて 耳を下ろすことはなかった

膝の上で痰が絡まる弱い呼吸が途絶え ほっと脱力して各々顔を見合わせた時

抱いている手を持ち上げるように 顔を近づけて2度深く呼吸をした

最後までキーツらしく ずっといつまでも一緒にいたいのだと 

嬉しく思ったが 何かしっくりこないものを感じながら

なぜか“犬の十戒”の出典が気になったりして 日々が過ぎていった

あとで やはりそれが思い違いである事を知った

ある日疲れて午睡をとっていると ゲクランに教えられた

キーツがいなくなった悲しみは ひと月 ふた月と

日を追って増してくるように思う

今こうして ヴィヨンやイプーを見ていると 

なにかこう 華やかなバラ色に輝いていたゲクランとの日々が突然終わり

(ゲクランと暮らした日々は別に書いた)

凛として老いに向かい合ったキーツと静かに暮らした日々が 深々と懐かしくありがたい

そして キーツのいない事が不思議であり キーツと出会った事が不思議であり

キーツと暮らした事が不思議で また キーツが無くなってしまった事が不思議だ

そして この大切な記憶がいつかは無くなってしまう事が 不思議だ

この不思議さに反転しそうになると  mac に取り込んだスライドを見る

そして ヴィヨンとイプーと一緒に帰る時にも消さないで そのままにしておく

ふたりに一日の終わりの匂い取りと排泄をさせながら

誰もいないぼくの部屋中に 記憶の光の粒子が音符に攪拌され混じりあって

グクランとキーツがふりおりて形になっていくのを感じる

ふたりが鼻先をこちらに向け 遠くから眼差しを送る姿を想い描く

2007/11/21

小島祐二

dogs.jpg

―亡き王女のためのパヴァーヌ - 中川昌三 - スティル・エコー Ⅱ ー

―そのあくる日 ( ゲーラ )- 大萩康司 - シェロ―

犬の十戒

1. My life is likely to last ten to fifteen years .

私の一生は10から15年くらいしかありません。

Any separation from you will painful for me.

ほんのわずかな時間でもあなたと離れていることは辛いのです。

Remember that before you buy me .

私のことを飼う前にどうかそのことを考えてください。

2. Give me time to understand what you want of me .

私が「あなたが私に望んでいること」を理解できるようになるまで

時間が必要です。

3. Place your trust in me- it's crucial to my Well-being.

私を信頼して下さい。それだけで私は幸せです。

4. Don't be angry at me for long and don't lock me up as punishment.

私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないで下さい。

You have your work , your entertainment and your friends .

あなたには仕事や楽しみがありますし、友達だっているでしょう。

I have only you .

でも、私にはあなただけしかいないのです。

5. Talk to me sometimes .

時には私に話しかけて下さい。

Even if I don't understand your words, I understand your voice

when it's speaking to me .

たとえあなたの言葉そのものはわからなくても、私に話しかけて

いるあなたの声で理解しています。

6. Be aware that however you treat me, I'll never forget it.

あなたが私のことをどんな風に扱っているのか気づいて下さい。

私はそのことを決して忘れません。

7. Remember before you hit me that l have teeth that could easily

crush the bones of your hand

but that I choose not to bite you .

私を叩く前に思い出して下さい。私にはあなたの手の骨を簡単に

噛み砕くことができる歯があるけれど、私はあなたを噛まないように

しているということを。

8. Before you scold me for being uncooperative , obstinate or lazy ,

ask yourself if something might be bothering me.

私のことを言うことをきかない、頑固だ、怠け者だとしかる前に

私がそうなる原因が何かないかとあなた自身考えてみて下さい。

Perhaps I'm not getting the right food , or I've been out in the sun too long

or my heart is getting old and weak .

適切な食餌をあげなかったのでは?日中太陽が照りつけている外に

長時間放置していたのかも?

心臓が年をとるにつれて弱ってはいないだろうか?などと。

9. Take care of me when I get old ; you, too, will grow old

私が年をとってもどうか世話をして下さい。あなたも

同じように年をとるのです。

10. Go with me on difficult journeys .

最期の旅立ちの時には、そばにいて私を見送ってください。

Never say, "I can't bear to watch it ." or " Let it happen in my absence."

「見ているのがつらいから」とか「私のいないところで逝かせてあげて」

なんて言わないでほしいのです。

Everything is easier for me if you are there .

あなたがそばにいてくれるだけで、

私にはどんなことでも安らかに受け入れられます。

Remember , I love you .

そして , どうか忘れないで下さい。私があなたを愛していることを・・・

― 作者不詳

 

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2007年09月29日

第27回 ――キーツの耳はうさぎ耳  その1―不思議という事

前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた
ぼくは記憶の方法として ある範列の基におこなわれていく自然な抽象化を
なすがままにしておくが それを止めてまである出来事に意味を問う事はない

出来事に意味を問うという事は 出来事自体に本質を見ようとする事であって
それは 出来事を見る視点 それを見ようとする意思 見たいものを見る事
自ら自身を見る事である
また出来事は連続した帯の瞬間であり その可能性と不可能性の要素は膨大で
その解析は神の領域となる
その意味において符合が立ち現れるのであって 何かの本質が現前するものではない
自己という近代的知性の方法である 遠近法的視点が立ち現れるだけの事であり
ぼくに言わせると それは偏見でしかない

倫理的に言って 出来事とはあくまでも他者として 扱わなければならない
ある出来事を超越的に扱い別の出来事と 意思というボイドで繋ぐ必要はない
自らを見るというなら 周りの友人達を見れば十分だ
それに 意思がいかに弱いものかという事は 日常的に経験している事だ

出来事から意味を問うて本質を見出そうという事は 悟りか夢見に似ていて
無限遠点に赴向く事を許される者はそうはいない
正当な宗教―カルトではない―では 改宗において―宗教は常に改宗を迫る
初歩的な逸話としてそれを誘うが 信仰が深まるにつれ禁止され 無意味だとされる
意味があるとするなら 存在にしか あり得ない
自分が今生きているという事は それはそれで不思議で すばらしい事だと思う
世界の了解とは そこから始めなければならない

世界が匣ではない事を認めるのに 随分と時間がかかったし
いまでも 数直線の0を認めるのと同じように うまくいかない時がある
それを何となくにせよ納得しようとしたのは 量子論に触れたせいだと思う
こう思うのも熱力学第2法則を認めるからだ
ぼくにとっては まさにここが時間の生まれる所だ
そして この時間とは決して一様でも 複雑でもないが
突き詰めて思えば 根源的な不思議さに向かい合う事になる

どのような不思議さかというと 
ぼくは自分自身を予めプログラムされた機械ではないと 証明できないし
という事は 世界もそういえるという事だ
まだ小さかった頃 病弱の母が家でぼくの帰りを待っている という事が
うまく呑込めずに 寝ていたはずの母に何をしていたか とよく聞いたものだ
学校で先生に怒られている時や道草をしている時に すぐ後ろにいなかったと
どうしていえようか よくそう思っていた

存在と不在の閾の不思議さは ぼくの思索(こう言えば何だか高尚な事のような響きだが)の
原風景であり  何処から来てどこへ行くのか というこの問いに
解を得られる事はないと思うが 厄介な隣人として扱う術を持ち合わせていない訳でもない
また 隣人として礼儀を尽くせば それなりの恩恵にも与る
しかし存在と非在の閾の不思議には 踏み越えがたい深々たる悲しみが横たわる


2007/9/29
小島祐二

2007年09月15日

第26回 ――符合ということについて あるいは傲慢さ?

前回 ポール・クローデルとその姉のカミーユについて触れた
翌週推薦した先生の集中講座のお供で助手を連れて 京都へ行った
烏丸御池で打ち合わせを兼ねて食事をして 近くの大垣書店を覗いた
ぼくはここの平台の積みの選択を意外と気に入っている
なんだか国立にあつた増田書店?といったか 
古い話で自信はないが よく似た感じがしていて好きだ
学生街の書店でいて 何か押し付けがましくない 大人の感じがして
通路でパラパラページをめくっていると なんだか学生のような気がしてくる

“みすず”の新刊が並んでいた
みすず書房の本は高価で学生時代は 意を決して手に入れなければならず
かといって純粋に研究書という訳でもなく せりか書房と同じく羨望の的だった
そう考えると 小沢書店やエピステーメを含め知的ファッションの
ただ中にいた と思う
小沢書店のソフトカバーの双書は二千円を超えていたが 
表紙が銅版画で使われるアルシュのような厚手の紙に
ダ・ビンチの素描をドライポイントで刷り上げたような装丁をめくると
目次がトレッシングペーペーに透けて見えて なんとも格好良かった

山川の世界史Bの教科書に副読本があって 教師用だったかもしれない
出来事と出来事やその解釈と解釈を関連づけたり
出来事の背景のエピソードを取り上げ 単独の記憶事項を結ぶ時
とりあえず固定する“のり”として とても役に立ったし
歴史が記述されるという 方法と形式を学んだ
そういった意味で 上記の出版社が出す本は ぼくにとって“のり”として
ある領域とある領域を読書しながら 楽しんだ
記憶の蓄積とはそのように抽象化していくものだと思う
固有名詞が“のり”に埋没して“のり”の記憶だけになってしまうのも
悲しい気がするが  想像と抽象についてはここでは触れない

で 大垣書店で クローデルを見つけた
―眼は聴く― ポール・クローデル 山崎庸一訳 みすず書房
9社共同復刊 書物復権という帯を巻いてなかなか興味深い
当然 買ってしまったのだが ここでは 見つけた という
その偶然性について ぼくなりに少し述べたいと思う

この事実に意味を重ねてひとつの連なった事象と受け取るか 否かは
心の健康の問題のような気がする
心に隙があると あるいは無知である事で 幾つかの偶然を符合させ
自己を世界の中心に置いてしまう
乖離していく自己は やがて世界に裏切られる予感に
いっそう中心を渇望していき 心象を物象化していく
ある種の求道者はこれを身体の限界の所でこれを行ない
見たいものを見る能力を身につけるというが
とは言え 世界はそのようなものに 意を介さない
世界に出てくれば 生物である以上熱力学の法則は絶対である
つまり お腹は空くし 出したものは元には戻らない

符合させる事は快楽である
世界を了解する事が出来る
偶然を感じる事や見いだす事はうれしい事だ
なぜなら ぼくはクローデルとカミーュについて思いを巡らせてから
80万秒後にクローデルとカミーユに出会ったからだ
その80万秒の中にクローデルとカミーユをいくらでも見いだす事は出来る
また 全く無関係だとも
ぼくは 母親の影響もあって勘の強い子供だったが
思春期に求道者の真似事をして 痛い目にあったので 
二つ以上の符合はやり過ごすし すぐに宙づりにしてしまう
これは 世界に向けて われわれ普通の人にとって
精神分析学的にも 正しい姿勢だと思う
また 二人以上嫌いな人がいたり どうしても大嫌いな人がいる人は
気をつけた方が良い これも符合が符合を呼び 符合の結末を見る事になる

ぼくはこう思う
おっと クローデル?
世界もなかなかやるじゃん!


2007/9/15
小島祐二

2007年08月28日

第25回 ――引き続き 老いについて

杖を振り回しながら 声高に若い信奉者を引き連れて安宿に向かうベルレーヌと
口ひげの両端を鳴戸巻きのようにして 殆ど―さかしま―の住人であった
バルベー・ドルーヴィイとのサンミッセル大通りでの 毎日繰り返されるすれ違いを
リュクサンブールのアパートの窓から見ていたというアンリ・ポワンカレの投げかける視線に
老いの共感を感じてしまうは 穿った思い込みだろうか
数学者の晩年は長い
一線から身を引いた所で とうに代表作を出してまってなおもまた存在を示そうとする
同世代の人に向けられる眼差しの愛着は透き通ったものだと思う
バルベー・ドルーヴィイはフランス人でも知らない人も多く 国書刊行会でしか出版されておらず
殆ど馴染み薄い作家である
ドルーヴィイの二人の弟子 ジョリ・カルル・ユイスマンスとポール・クローデルの
それぞれの世界との折り合いのつけ方を思うと複雑な思いがする

クローデルは早くに宗教と和解して 官僚として一応順調に大使まで勤め駐日大使として
文楽など日本の文化を理解するとともに 明治憲法下において軍事国家へ向かう危険性を
正確に予測している
ドルーヴィイとマラルメにも等しく距離をとれたのは 姉のカミーユの激しさとその破滅を
傍らで見ていて 魂の奔流に本質的に懐疑を抱いていたのではないだろうか

ユイスマンスはまさに格闘した人である ようやく―彼方―において和解し得た
ちょっとお腹が空いて アパートからサンジェルマン大通りを少し斜めに川岸に入った
深夜のオデオンのカフェの前でパリ大の学生たちに混じって パニーニが焼けるのを
待ちながら偶然ユイスマンスの家を見つけた  うれしかった
ポワンカレは世紀末の大数学者でホモロジーの概念は ぼくのデザインという行為
考全般において 基本的原理的なものだ

ベルレーヌの詩に波がひたひたと打ち寄せては劇場を満たすというようなフレーズが
あったような気がするが 老いとはそのようなものだろうか
もちろんベルレーヌは酩酊している


2007/8/28
小島祐二


2007年08月25日

第24回 父の傍らで寝る

マグリット・デュラスは 70 歳を過ぎて 
― 18 歳の頃わたしは既に老いていた、、、、、、―
という書き出しから始まる小説を脱稿しているが 
人はいつから老いを感じるのだろうか
体力だけでいうなら スポーツクラブのプールの中央レーンを独占して
インターバルを繰り返し 戻しそうになりながらマスターズの記録会に備えたが
どうしても中学の記録には遥かに及ばなかった
また 固有名詞が思い通りに出てこないとか 
子供たちの名がコンフィューズしてしまうとか
ぼくはイプーといいたいのだけれど キーツとヴィヨンと口にしなければならない時があるが
そのようなものは いくらでも理由が付けられる
が かつて感じた小学生の頃の通学路を歩いた その道幅や側溝の狭さへの驚きと
成長への自負は いつしか 父の背中や母の胸の小ささの気遣いに取って代わっている
老いもまた空間として認知するものだという事か
思春期を過ぎて感じていたその自負も その時は既に胸腺は萎縮し始めていたというのに
この空間としての老いは絶対的空間として 諦めを強いる
しかし これくらいのものはまだいい
大丈夫だと思う
この老いもまた成長していくらしい

父がそうしていたように 出来るだけではあるが
3年ほど前から月に一度は両親に会うようにしている

最近母が日常の体調を保てなくなる期間が 短くなってきて以前のように
退院を待って帰省し辛くなってきたので母の入院中に帰省が重なる事もあるようになってきた
そして 母のベットで父の横で寝た

2007/8/25

小島祐二

2007年08月10日

第23回 ――で、犬のはなし ―犬になれないのが 悲しい

むかしよく詩をよんだ
“ 未来に老いる“というフレーズが好きだった
学生時代必要にかられてフランソワ・ヴィヨンからマラルメまで読んだが 
ぼくは その後のとりわけフランシス・ポンジュや イブ・ボヌフォアの 詩には
強く魅せられて ヴァレリーやボードレールにはないなんと言えば良いのか
あこがれのようなものを感じた
象徴派の詩と言えば埴谷雄高の随想集に鋭い指摘があって 西脇順三郎を読み返して
ポンジュやボヌフォアに傾倒した

ポンジュの―物の味方―を捩って イジドール・デュカスのロートレアモン伯
よろしくG・ T ・ディ・ランペドーサ=ポンジュのペンネームで
ピース・ユニックのまゆりの絵に詩をつけた
ランペドーサは公爵だったので ロートレアモンより偉い

ついでに ルキノ・ヴィスコンティーの映画は岩波ホールでまゆりと見たが
小説―山猫―は読んでいない
ちなみに ヴィスコンティー家も公爵家でミラノにお城が残っている
―熊座の淡き輝き―のクラウディア・カルディナーレは
ヴィスコンティー作品の中で最も美しいが
その伝統の中に自らを埋めことでしか 新しい時代にその形式を残しえないと
淡々と生きる統一前の老貴族を描いた―山猫―と現代を描いた―家族の肖像―
を比べてほしい
ドミニク・サンダもクラウディアに匹敵するほど美しい 余写らないが
パラダイムが転換する時や死を前にした老いの美しさとは 
このようにありたいと思う

ボヌフォアは院に進んで大学に残った友人と語った
未だ存命で絵画論を時々発表している
―今、ここに―という現前性にことば以上のものを感じてきた
ポンジュの―物の味方―は世界を構築し ボヌフォアの―今、ここに―は
決心と諦めのうちに勇気を呼び起こす
カフカの―世界と君の戦いでは、世界に支援せよ―をようやく理解する と

ボヌフォアの言う―今、ここに―にまさしくさらに強く ぼくの犬たちとの生活がある
彼らは 今を生きて 未来に老いることもなく 淡々とその生を受け入れる
今を喜び また悲しむ うらやましいと思う
できることなら そのようにそのまま触れることができたらと思う
ヨーロッパの街角で出会うホームレスの犬たちの なんと満ち足りて 物静かなことか

2007/8/10

小島祐二

2007年07月28日

第22回 フーガ的呟き―続き

前回はサブカルチャーについて 思わず長くなってしまった

レアな庶民的で名のない人々のカルチャーの
リレーションという事の重要性の真意ついての
補足を少ししておく必要がなくはないのではないかと思う

いわゆるサブカルチャーがあるいは それを担うと自負する人達が
自らが招き入れるマネタリズムによって サブカルチャー自体を
疲弊させているのではないかと 指摘しておいた
また 彼ら自身がカルチャーの前衛と錯覚するための補償として
社会学と精神分析を歪な形で取り込み 躁鬱化している
これは各領域で世代を超えてみられる増加現象であり 低年齢化している
そもそも ロラン・バルトや由良君美が映画や劇画を 
また埋もれた作品などを取り上げたのは 大文字のカルチャーに対する
カウンターであり サブカルチャーという枠組みに
賛成もしていなければ擁護もしていない 形式の問題性を提示したのである


現象としてひとつの分野が勢いをなくすとか 
他に内包され統合されるとか その逆も また一時的に消えるとか
それは あり得る事だ
消え去るものや消え去ったものについては
制度的枠組みを超えた パラダイムの転換に関わる事なので
ここでは触れる力量がない
ぼくは良きリレーションに身をおいていたと書いたが 真にリレーションは
マスではおこなえない
マスでおこなわれ得る事と言えば 雰囲気や噂を形成させるぐらいで
知的な深度としては浅く 確信としては脆いものである
これは明治以来文化制度として根付いており
我が国では思想家や哲学者ではなく 批評家がその役割を果たしてきた
そして彼らは 膨大な枚数を重ねながら 一度も体系化させた事がない
よく脱構築について 戯れとかノマドあるいは逃走と言われたが 
それは 形式や構造からの行為や所作であって 形式や構造の理解には
ある程度の付帯した知識と気づきがないと 形式なり構造は見えてこない
例えば それは教師と学生の距離が一層身近くなるゼミの後の研究室での
談話においてであり かつて重要だったのは父親や伯・叔父との間に為された
子弟関係における一子相伝に理想をみるのかもしれないが
そこでは形式が受け渡されるのであって いわゆるハウツーとは対極にある
説明なしに提示されるだけである
あくまでも収蔵された知とは固有のものでありながら
その形式を支える方法論的系譜として体系化されていく


ぼくは軽井沢に連れて行かれたが フォンタナやその絵については
何も語られず 別荘地の側溝に自生していたクレソンを見つけて
一杯摘んで 冷たいポタージュスープを作って食べた


2007.07.28
小島祐二

2007年07月14日

第21回 フーガ的呟き―パリ祭にて あるいは結婚記念日

前々回はちょっと犬について考えてみた
経済学的に言うと犬飼は全く愚かな事をしていると書いたが
全く愚かである
と言うのは 経済学が想定してきた人という概念は
不合理な行為をなし得ない人であり
たとえ不合理に陥ったとしても神の見えざる手がついには働くという
神学的な面を引きずっていた
それは ゲーム・確率理論や不確定性をもとにした 
論理経済学にしても 現実の諸現象に敷衍する人たちの根底には 
見え隠れしているように思われる
巷では平然と ピザを6切りにするか8切りにするか 
的な理論が横行していて 一向にそれがやむ事はない
ちなみに ぼくは腹が減っていようがいまいが 6切りの方がいい

このところ よく思う事だが 真に支持者する人たちが一段といない
あるいは 社会的に無言にしてはいても それを温め慈しみながら
日常の規範としていた人達の層がいなくなったのではないだろうか
改まって問われて おもむろにはにかむように 答えるという
にも関わらず 消費されていく
消費は効率を求める競争でもあり その根拠は利己性にあるはずだ
人は利己的であるというのは その通りである
が 利己的な事自体は悪い事ではない
そもそも利己的な感情をもとにその感情の多様性によって
人類は繁栄してきたのだから

しかしながら 利己的なところに競争が介在しているのが 
猿人以来の我々の世界である
ぼくはいわゆるサブカルチャーというコトバが嫌いだし
その括り自体が理解できない
そもそもサブカルチャーとは生活そのものの愉しみである訳であるから
小さくも大切な日々の幸福であり また内に日々沈殿していく齟齬(疎外)
を攪拌して ブラウン運動のようなものに換え
本来 明日を希望させるべきものである

思うに ぼくはヴァルター・ベンヤミンにサブカルチャー論の初現を見出すが
ジェルジュ・ルカーチはベンヤミンを読んでいたか 知っていたはずだ
ルカーチは藝術にも上部・下部構造をみて 下部の文化構造の活性化を説いたが
そのときの下部構造とは 例えば口の回らない頃から論語などを
親の口から音読させられた人々や
勧進帳の台詞と所作をその筋を時代背景と供に暗記して
子供たちにその真似をさせる人達のような層を想定しているのであって
それは庶民的でのよくある家庭の一風景だった
就職してデベートやコーチングの根拠としてその口語訳に触れたり
マニュアル本を片手に観劇する人達ではない

その時代のエピステモロジーの枠内では 本来サブカルチャーが
凡そ体系化された学説や最新の理論など敷衍できようもないが
そもそもサブとはそのような役目を持ち得ない
今日 前面に立ったことでマネタリズムに晒され連続性を断たれた
サブカルチャーがその消耗した知的深度と物理的制度のもとで
どのようなシャッフルと循環が行なわれるのだろうか
個人的にはルーズソックスとシャネルのポシェットのミスマッチには
期待を寄せていたが
学生の頃 サブカルチャーで特権的地位を占めていたのが
映画とファッション あるいは宗教とロマン的マイナーだった
映画とファッションは身体論であり
宗教は改宗を迫る以上これも身体的であり 
ロマンとは身体的行為に他ならない
また いずれも反語的にしろマスを望洋している
流行通信に由良君美が連載し始めたのも その頃だったように思う
それから マリークレール等の雑誌と劇画の時代となった

そして ロラン・バルトである
その時既に レヴィ・ストロースや
―青い狐―マルセル・グリオール ジェルメーヌ・ディルラン供書
文化人類学者たちの本を齧り なんといっても カール・グスタフ・ユンクの
アーキタイプを知っていた
ぼくたちは面白いようにいい加減な分析が出来た
やがて バルトは―快楽のテクスト―を表し 
僕たちのような稚拙で方法論を欠いた未秩序で虎の威を借りた 
エピゴーネンたちを批判した
そして 丸山圭三郎によってランガージュの深遠さを覗かされた時だった
ぼくはフォンタナに実際に触れたのだった
―白い切り裂かれたキャンパス― 
人は一見関係のないように思われる事に 打たれる事がままあるというが
その時 ぼくにとってそれは空間と言う概念の新たな啓示だった

神話的=神学的上昇とは無縁の―いま―という空間
スリットの向こうの風景―いま―という 複数性と重層性あるいは多島海性
視線の蓋然性に圧倒され 途方に暮れる思いがした
―シュールの思想―を上梓し終えた丸山圭三郎の授業は 確信に満ちていたが
家に帰って例えば 恣意性と関係性についてノートを整理していると
授業で力強く導かれていたにもかかわらず どうしようもなく途方に暮れた
いまこうして フォンタナの衝撃と多島性とその視線の蓋然性について
思いをよせていると 先生のホモ・ファベールしか見る事がなかったぼくは
死を前にしていた―ホモ・モルタリス―の必然が見えてくる

ぼくはこのように フォンタナに視線という空間を啓示された
そして まだ学生のぼくを 軽井沢の高輪美術館にフォンタナが
来ているからと 連れ出したのが 後で師匠となる人達だった
ぼくは 幸福なリレーションの中にいたと思う
そして ずっと一緒だった ありがたく思う

2007.07.14

小島祐二

2007年06月20日

第20回 愈々盛って しか リハビリか?― ― 西瓜“党”の日々

西瓜の季節であるが 余り甘くない 糖度が12度程度で渋々である
一番生りが当然一番甘いが
産地を北上していっても8月に入ってしまうと美味しくなくなってしまうので
梅雨の中休みのかんかん照りを期待したい
その渋々の真ん中だけを食べて 後を子供たちにも分けてやる
と言うか 食べてもらう
ゲクランで発見したのだが 犬は西瓜が大好きである  
と言うか家の個体たちは全てがである
シャカシャカとよく食べて 
“美味しいぃ~”とうっとりした視線を送って来た 
で  現在である 
いやはや何と言うか  とんまな戦いのような惨状が繰り広げられる


大体4つ割にしたのを買ってくるので  それを横に2つに切ってそれぞれが食べる訳だが
縦に公平に切り分けるのは大変難しい  正確に切らないと注意と指導が入る 
好きなものついてはことさら 切った人が少ない方を取るようにと 
子供の頃 親に習ったが
出来るだけ公平に見せて多い方を取るか  小さい方を選ばせるのだ 

イプゥーが最初に まだですか もう良いのではないですか 
もう 赤いところ赤いところ  とやって来る
で しょうがないのであげると  涎を どぅーっと ほんとにどぅーっとである
落としながらシャカシャカとやる
そのうちに  まるでお迎えが来たように寝ていたキーツがむっくり起き出して
ぼくもぼくもと言って来る
嗅覚は依然として健在らしい
キーツは怖いのである 

何度言って聞かせても バクッパクッと二段噛みして指まで食われてしまうので 
これには まゆりは不参加である
そこで スプーンを持ち出して上に乗せて 少し固定してあげることにしている
キーツも心置きなく食いつける訳だが
最初のがぶりで勢い余ってスプーンの上から毎回のように飛ばしてしまう
飛んで行った西瓜をヴィヨンが下で待っていて 少し斜め気味にシャカシャカと始める
かくして 床には西瓜糖が撒き散らかされるのである 

先日のは急に夕方から寒くなったし 特に甘くなかったので 
子供たちへ大サービスとなり二皿分切ってあげた
最初は喜んでいた子供たちも次第に飽きて来たらしく
ペースが緩くなったと思ったら
急にぽとりと床に落として さっさと2階へ上がってしまった
全く現金なものだ サービスが過ぎて だいぶ青臭かったかもしれない
こうして 我が家の西瓜糖の日々も中休みである 

前回の題は荘子から拝借した 
荘子では “胡蝶の夢”の方が広く知られているようだけれど 
ぼくは恵子と橋の上から交わした
“魚の楽しみ”についての対話を知った時の事を思い返すのが好きだ
折々につけ立ち返るコトバの一つで 胡蝶の夢もそうだけれど 
韓非子の“切り株”や明るいとは とても言えないけれど
論語を含めて漢籍のある種の空間をなしている
その周縁を薄く取り巻いてきたような気がする 

そして 今となってはとても稚拙で恥ずかしいが 
高一の倫社でソフィスト達と一緒に夏の汗と伴に流してしまった
まぁ~ホルモンのなせる技ではあるが 
それからホルモンの真っ直中へ進んで それはもう恥ずかしいの上をいく
“筆舌に尽くし難し”<そのコトバを知らない 
ジェノバの禿げ山の激しい嵐の一夜?
磔刑にして塩を撒きたい とか意味もなく思う 

今となっては あの頃の自分が信じられないし理解不可能で 
到底今の自分との繋がりを拒絶したいのだけれどそれでも
その後ろめたさにめげそうになりながらも それをインテンションにしてはいるが
中学や高校の同窓会には絶対に“行きたくない”
思わず 力が入ってしまった 遠くにいて良かったと思う 

それからロラン・バルトにその浄化したものを見せられ 
それは鮮やかできらきら煌めいてめくるめいていて
目が廻って掴み損ねたけれど  目に入ってきた残像は今でも 
ぼくの脳の中で虹のように輝いている
まるで 狐の嫁入りのような雨に打たれた印象を持っている 
それからミシェル・フーコーでありジャック・デリダとのデカルトを巡る理性論争であり 
カントの微睡みとヒュームの唸りである
そのようにしてその空間は広がり続け 
その時折々の印象と解釈のうちに 他の空間を併せたり 

例えばガリバー旅行記はぼくの中では ヘンリー・D・ソローやレイチェル・カーソンへと続き
リチャード・ブローティガンでは アイリーンという名が 
レイチェルと同じようにその響きから永遠の名前となり
明るく眩しい日差しの下にも 心に沁み入る透明なリリックの悲しみ味わったその時
ポール・ヴァレリーの“海辺の墓地”のについて“ルミエール”というサブタイトルを付けたレポートを書いていた
キーツは“アメリカの鱒釣り”の土地から来て アイリーンの香りがする
それから この空間には後年 ヘルマン・ヘッセがメイ・サートンと伴に回帰してくることになる
ガリバーは“フウイヌム”の最終章まで読むべきだ
ちなみにバックミンスター・フラーはソローの一族である  
かなり問題児視されていた 

一時的には途切れたようでも また更に薄く伸びて世界を輪郭づけていく
私という世界もそのようなものだと思う
私という自己とは決して私の中心にはいないものだ
私という意識は薄く延びるだけ延びて私という縁であるほうがいい 

鶴ヶ谷真一―書讀羊亡

イチェル・カーソン―海辺 センス・オヴ・ワンダー

ヘンリー・ディヴィット・ソロー ―森の生活 ― ウォールデン

ヘルマン・ヘッセ―庭仕事の愉しみ

メイ・サートン―ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く独り居の日記

リチャード・ブローティガン―西瓜糖の日々

ポール・ヴァレリー―魅惑 テスト氏

ウィリアム・アッカーマン―Passage/Anne's Song

ジャニス・イアン―Between The Lines/At Seventeen
 


2007.6.20

小島祐二

2007年05月28日

第19回 書讀犬亡 ――“レポート”を読んで“犬”を失う――あるいは 2 ボルゾイ忘主散歩 リハビリは進みつつあるか

講義と大学の行事(浜村の掃除をして砂のオブジェを作り 

そして砂に戻す)を終え 4日ぶりに帰宅して子供達の熱烈歓迎を軽くいなして 

あまりご機嫌の宜しくないまゆり様には早々に 帰って 寝てもらって 

明け方迄 学生達から回収したレポートをファイルに納めながら添削と採点をした

レポートを課題として提出させると  32 倍の仕返しが待っている

で 追筆や再提出の仕返しをすると またそれだけの仕返しが待っている 堂々巡りではある

最近は夕方が長く明るくていいのだけれど 

夏至も近くすぐ夜が明ける とむかつきながら PC を閉じて

見張りを要するヴぃよんは 傍で痙攣しながら白目を剥いて寝ていて 

といっても PC を閉じる音に直ぐに反応する訳で

中庭で涼んでいたキーツとイプーを探すと いない  門が開いている 

さっき排泄させたときは閉まっていたはずだが が 何処にもいない

で 外に出て見回すが 辺りには気配がないので 

慌てて自転車で散歩コースの西は砧公園から東は馬事公苑と渦巻き状に中へ 

また外へと  浜村の 砂掘りで疲れた足腰で駆け回った 

これって 空間デザイン論で意地悪く宣うたプラトン立体の正四面体の渦巻きではないか

仕返しではないのか バチ??? で いない  目がチカチカしてきて

じっちゃんのキーツがそんな遠くに出かけるはずがないじゃないかと 

訳がわからなくなって  110 番した

―はい 警察です 事故ですか 事件ですか

―いえ あのう 犬が、、、、 門があいていて 犬がいなくなってしまって 

  そう言う情報が届いてないものかと

―どちらに お住まいですか  ここで張りつめていた声のトーンが親密なというか 

  同情的な響きが広がる

―上用賀です 

―それなら 所轄の警察署の電話をお教えしますから メモをお願いします  親切である

―もしもし 犬がいなくなって 情報がない か と電話したんですが

―ああ 先ほど世田谷署の方から アフガンを保護したので問い合わせがないか 

  連絡がありましたがアフガンですか

―いえ ボルゾイですが  よく混同されるので  2 頭で白ければ家の 子達 です

―じゃ 世田谷署に問い合わせてみてください メモは良いですか。。。

―もしもし 世田谷署の方で犬を保護されていると聞きまして 電話しているのですが

―はい 先ほど保護したようです

―アフガンらしいとの事でしたが 白いボルゾイ2頭ではないですか

―あれは ボルゾイですか 

―ええ 鑑札は着けていないのですが 迷い子札を着けていてキーツと言います ありますか

―ここにはいないのでね でも白い2頭ですよ

―それなら家の子達です すみません今から引き取りに参りますので 宜しくお願いします

―はい 場所はご存知ですか 

―はい  246 沿いの三茶の手前を入った所ですよね

―そうです

という訳で お巡りさんに聞いた所

キーツとイプーはアトリエから 30 メートル先の公園を 彼らだけで 散歩中 

御用となりパトカーの犬となったのである

夜明け前とは言え  この近辺の幹線道路である用賀中町 道路を横断したなんて

―横断歩道はあるが―ぞっ!としてしまう

ぼくはよたよた歩くキーツをかばって 

車に体当たりする夢に飛び起きることが ままあったりする


で 着いてみると  5-6 人のお巡りさんに囲まれて しっぽを揺らしているのを発見

―良く言う事聞きますね 車好きですね  ずっと大人しく付いてきましたよ  

  車でよく出かけられているのですか 

―はい ありがとうございます     ――じゃないよ――  

―良かったねぇ? 迎えに来てもらって いい子達ですね

―はぁ どうも お世話 を おかけしてしまって、、、  ――逮捕されたのに?――


と すっかり夜明けとなってしまった

いやはや なんと言うか 良かった―まゆり様に 先に帰って 寝て頂いていて―何もなくて 

と言うか まったく 油断していて 飼い主失格である  運がついていた 

もしかしたら ゲェー (ゲクランのことを僕たちはそう呼ぶ) かぁ??とも思ってしまう  

先日のヴぃょんと言い


で 犬について 少し考えた


昨年ぼく達にとっては大きな事件があった

あるドックパークが倒産して 大量の犬達が放棄された

それに続き そのレスキュー活動の顛末で紛糾した

その事は レスキューのあり方に深い傷を残した思う

犬達は何処かで次々と生まれ 次々と死んでいく――みなが悲惨だという訳ではない 

犬の生涯は人と比べ圧倒的に短いからだ


飼い犬は人に最も寄添って生きている動物である

しかし実は  犬飼(犬に付帯して利益を得ようとする人を含め) が最も寄り添っているのであって 

経済学的には 不合理な行動をしている頭の悪い人たちである と言うことになろうか

有益性でみれば人間に寄り添って(無理矢理も含めて)生きる他の動物に比べ 

圧倒的に手間がかかり かつ 他に比べ有益性の経費対効果は 驚くほど低いどころかマイナスである

犬自体ででは儲からないのである 

そこで 付帯して利益を見出す訳だが どうしても歪んだ形をとってしまう――

とても正常とは思えない


しかし 一度暮らし始めると もう 止(や) められない

そして 犬の生涯は恐ろしく短く だからこそ ぼくたちは一層いとおしく思うし

ぼくはゲクランと暮らし始めた日から ゲクランを抱いた温もりのうちに その別れに戦いた


この経費対価の低さに犬にまつわる個々の不幸があるはずであるが 

野生動物達が絶滅していくなか こうも種として繁栄している動物もいまい

遥か大昔に強かに人に近づいて虜にしたように 強かに生き抜いて欲しいと願う


2007.05.28

小島祐二